ガパオ日記

ふとした疑問を、童心に帰って全力で考えるブログです

国家ってなに? 〜「王権神授説」と「社会契約説」〜

 啓蒙主義について調べた時に、「絶対王政」というワードが出てきました。

gaprao.hatenablog.com

 

もちろん意味はなんとなくわかりますが、その基となった「王権神授説」、そして革命によってその代わりとなった「社会契約説」について調べてみました。

 

王権神授説

https://www.y-history.net/appendix/wh1001-023.html

 

社会契約説

https://www.y-history.net/appendix/wh1003-030.html

 

王権神授説について。

国王の権力は神から与えられた神聖不可侵なものであり、反抗は許されないとする政治理念。主権国家体制の形成期の、いわゆる絶対王政国家において、国王およびそれに依存する貴族や聖職者によって体制維持の理論として展開された。 

 

社会契約説について。

主権国家体制の最初の形態である絶対王政の政治理念であった王権神授説に対して、17~18世紀の市民革命期に成立した、新たな政治理念。社会の基礎を個々の人間におき、それぞれの主体が互いに契約を結ぶことによって社会が成立すると考えるのは、ホッブズ、ロック、ルソーらに共通であるが、国家のあり方、政治権力と人民の関係ではこの三者でも違いがある。

 

17世紀前半のホッブズは、人民は政府に自然権を委譲していると考え、抵抗や革命は許されないと考えたが、ロックは人民は自然権の一部を政府に委託しているのであり、主権者である人民に抵抗権・革命権があることを認めた。18世紀中期のルソーは各個人は自由・平等であり、その集合体である人民の意志(一般意志)は最高絶対の権力(人民主権)であって、人々の契約の目的は国家ではなく人民の共同体にあるとした。一方で、18世紀前半のフランスのモンテスキューは、基本的人権の保障の観点から、国家権力を立法、司法、行政の三権分立という、より具体的な人民と国家のあり方を提唱した。

 

現代の我々からすれば、「国王の権力が神に与えられたもの」という発想は違和感を感じてしまいます。ただキリスト教的世界観が根底にある当時の人からすれば、それはある種、現代的に言えところの「科学的に正しい」に近いものなのでしょう。そう考えるとわからなくもないですが、、。

 

社会契約説は現代に続く思想ですね。この記事も面白いです。

http://homepage1.canvas.ne.jp/minamihideyo/gensya-syakaikeiyakusetu.htm

 

国家がどのようにできたか。歴史的事実としては、おそらく血縁、民族、宗教、文化などによって裏付けられた共同体が、やがて国家に発展したものと考えられる。

 ところが社会契約説はそうは考えない。国家というものを自分達の身の安全を守るために人工的に作ったというフィクションをでっち上げるのである。つまり、国家のない自然状態では自分の命や財産は守られない。だから、人々は自分の安全や財産を守ってもらうために、国家の設立に暗黙の合意(=社会契約)をしたと考えるの である。

 なるほど。国家の設立の過程を考え直した、定義し直したということなのでしょう。

 

歴史的事実としての国家は血縁・民族・宗教・文化などを背景に形成された 。しかし、社会契約説では、国家というものを血縁・民族・宗教などからきっぱり切り離し、民族や宗教の上に国家をおいたのだ。

 国家を宗教の上位においたことにより、どんな宗教を信じるかは個々人の自由となった。この意義はどんなに強調してもしすぎることはない。

 これは当時は本当に大きな変化だったでしょう。

 

 

「王権神授説」と「社会契約説」について整理できました!

啓蒙主義ってなに?

啓蒙主義」って聞いたことありますか?

世界史などで習ったことがあるかもしれません。私は理系学生だったので、世界史はあまり詳しくないのですが、なんとなく聞いたことがある気がします。

帰り道を歩いている時、ふと「啓蒙主義ってなんだろう?」と思いました。

 

こちらの記事がとてもわかり易く解説されていました。 

https://www.y-history.net/appendix/wh1003-031.html

 

啓蒙主義啓蒙思想は同じみたいです。そもそも啓蒙とはどういうことかというと、

18世紀フランスに起こった啓蒙思想での「無知」とは、封建社会の中で教会的な世界観の中に閉じこめられていた人々のことを言い、彼らに対して「人間」や「社会」、あるいは「世界」や「自然」の真実を教え、無知から解放することが「啓蒙」であった。

それを踏まえて啓蒙思想の説明を見ると納得です。

18世紀の西ヨーロッパ(特にフランス)で興った、キリスト教的世界観や封建的思想を批判し、人間性の解放を目ざす思想。その影響を受けて啓蒙専制君主も現れたが、絶対王政の市民革命にもつながった。

当時は、人々の思考や世界観の根底には、キリスト教があったのでしょう。そんな中でガリレオニュートンを始めとする、科学が生まれ広まっていったわけです。

それを市民にも普及させよう、そして政治制度も変えていこうというのが啓蒙思想だったなのですね。

17世紀の「科学の時代」に対して、18世紀は「啓蒙の時代」と言われている

 

産業革命にはじまる近代社会の誕生の源となったのが啓蒙思想だったのですね。

なんでスマホがないと不安になるの?

人々の生活にスマホはなくてはならない存在となっています。朝起きてスマホ、電車に乗ってもスマホ、授業中もスマホ、食べる時もスマホ、、、、。

もし、スマホが手元になかったらどう感じますか?なにかしらの「不安」を感じませんか?

そこで思うわけです。

 

「なんでスマホがないと不安になるの?」

 

世の中にはスマホ依存という言葉もありますが、私はスマホ「依存」というほどではないと思います。でもなぜかスマホがないと不安だし、なぜかなんとなくスマホをいじりたくなるのです。

 

答えを探すべく、辿り着いのがこの記事。

forbesjapan.com

 

この記事には驚くべき文章がありました。

私たちは「テクノロジーは中立だ」と誤って信じ込ませられている。そして、テクノロジーは実際には、私たちの脳が持つ「習慣化」する傾向を利用できるように操作されており、業界関係者らはそれを「脳のハッキング」と呼んでいるという。ハリスはこのハッキングが、私たちの集中力や人間関係を「破壊している」と警告する。

 

ここに答えがありました。脳がハマるような性質を持つからスマホを弄ってしまうんです。

脳の「報酬を求める」特性がこの問題に大きく関わっていると見ている。

 

脳はもともと報酬を求めて行動を決めます。これは感覚的に納得できます。人間は意味のない行動はしようとしないで、必ずなにか成果や報酬を求めて行動をします。

スマホを弄れば、様々な種類の大量な情報が手に入ります。つまりスマホを弄るだけで報酬が得られるのです。

さらに、スマホを弄らないとなると今度は「FOMO(Fear of Missing Out、何かを逃す不安)」が働いてしまいます。

何かを失う感覚と不安が結び付けば、「孤立している」という意識がもたらされる。脳が既に不安を和らげる習慣を確立しているときに、その習慣を混乱させるようなことが起きれば、そこで結果として予測されるのは、不安の増大だ。

 

要するに、スマホを弄ることで脳の不安を和らげるという習慣を確立しているところで、スマホが身近にないとなると、結果として不安が増大してしまうのです。だからスマホを身近に置き、そして常に弄ってしまうんです。

 

 

今日の考察

スマホは、報酬を得たいという脳の行動原理にフィットしており、スマホを弄らないとかえって報酬を取り逃がした感覚になる。現代人はスマホを用いてこうした脳の不安を和らげる習慣を作ってしまったため、スマホが身近にないと不安が増大し、現在の状況を改善できないのである。」

 

 

学問ってなんだろう?

「勉強つまんない」「なんのために数学やってるの」とか思ったことありますか?私はあります。今日は「なんのために○○やってるの」疑問を解決すべく自分なりに考えてみました。

 

 

「数学」

そもそも数字というのは何に使うでしょう?

「テストの点数が90点」「敷地面積100m^2」「最高気温23℃」

こうしてみると数字は何かを比較するときの手段として使われます。それも大きい小さいなど漠然としたものでなく、より定量的な表現です。

そう考えると、「数字は絶対的な比較指標」といえます。

 

数学というものは数字を扱うものです。ときには物理や化学の中でも用いられます。演算を行うことで、最終的にある値を得ます。数学においては、異なる手法で演算を行っても答えとなる値の出方は一通りです。

 

このように考えると、数学は「絶対的な比較指標を用いて、物事を詳細に検討する学問」であると言えるでしょう。

 

もう少し考えると、数字が文字という意味で日本語や英語と一緒とする、つまり「2」と「い」は等価であり、数字による表現が日本語の文章と等価とします。通常の言語は現実世界を切り取ったものなので「緑」といっても信号の青が緑という人、葉っぱが緑という人様々で、どこからどこまでが緑というかはっきりしません。「優しい」という言葉も場合によってさす対象が変わりますし、人によって捉え方が違います。

通常の言語は境界が曖昧ですが、数字は境界がはっきりして一意性があります。

 

そうすると、数学は一般に存在する言語と異なり「曖昧性を排除した言語である」とも言えます。

 

「国語」

まずは一つは言語の習得でしょう。

「読む」「書く」「話す」「聞く」において日本語を使えるようにする。

 

その上で、日本語の文章を読んだ上で何か考えたり感情を把握したりします。物語文においてこの行動をとった理由は何かとか、この論説文は何が言いたいかなどを考えさせます。

 

まとめると、国語は「言語を使いこなし、論理的思考力を養う学問」と言えます。

 

 

「物理」

比較的わかりやすいと思います。世の中の物理現象に成り立つ法則を学び、それを使ってある時刻での物質の状態を導きます。ボールを投げたらどこに着地するか、などですね。

物理では詳細な検討をするため数学を用います。「10秒後にはこの辺りにある」ではなく「10秒後に座標(10.2, 3.0)にある」というような情報を知りたいからです。

 

物理は「ある時刻や状態における物質状態の予測をする学問」であると言えます。

 

「化学」

化学は物質を分解して考えます。大きなモノとして考えず、原子、分子レベルに分解して考えます。それは、目に見える形では理解できない物質の変化を理解するためです。簡単に言うとホッカイロがあったかくなる理由を知りたいのです。

 

またある現象を解明すればそれを応用して、自然には存在しない驚くべき物質を作ることができます。それがコカコーラゼロなどに含まれるアセスルファムKなどです。1滴でめちゃくちゃ甘い物質を作り出しました。

 

化学は「ミクロな視点での諸現象の解明し、新たな物質を作り出す学問」と言えます。

 

「歴史」

歴史は上手く納得がいきませんでしたが、こんなことだと思います。

 

歴史を学ぶと言うことは、現在だけでなく過去を知るということです。これを一人の人間に置き換えると、過去を探るということです。もし歴史を学ばないと、記憶喪失したのと同じようなもので、もちろん生きてはいけますが見える世界が違ってくると思います。

 

もう一つの例で言えば、引き継ぎ資料みたいなものです。引き続き資料なしであることをするより、引き続き資料があった方がなにかと便利ですよね。

 

これをもう少し考えると、引き続き資料は今どうすべきか決めるための材料になるもので、歴史は材料を用いて今どうすべきか考えるものであり、また引き継ぎ資料をより良いものにする、つまりその材料をより正しく理解できるようにするものです。

 

よって歴史は「過去との比較により現代の検討をする、あるいは現代の検討をするために必要な過去を理解する学問」と言えます。

 

 

今日の考察

「数学」

曖昧性を排除した言語であり、絶対的な比較指標を用いて、物事を詳細に検討する学問

「国語」

言語を使いこなし、論理的思考力を養う学問

「物理」

ある時刻や状態における物質状態の予測をする学問

「化学」

ミクロな視点での諸現象の解明し、新たな物質を作り出す学問

「歴史」

過去との比較により現代の検討をする、あるいは現代の検討をするために必要な過去を理解する学問

「絵画」って何が目的で書いているの?

私は特別絵画に関心があるわけではないですが、たまに絵画展に行ったりします。そこで沢山の絵画を見て思うのです。「きれいだな〜」「かっこいいな〜」「すごいな〜」(語彙力、、、)。それと同時にふと思いました。「なんでこの絵を書いたんだろう」「何か目的があってこの絵を書いたんだろうか」。

 

もちろん「綺麗だったから」この絵を書いたというのもあると思います。絵画は写真と似たようなものだと仮定すれば、「美味しそう!」「インスタ映え!」といって写真を取るような感覚で絵を書いている人もいたでしょう。

 

でもそれでは、何百年も残っていて称賛されている、評価されている理由を考えるのには乏しいと思います。そこには人々を魅了する何かがあるから現在でも評価されているのではないでしょうか。

 

 

ここから私の勝手な考えが始まります。

 

絵を描くことには何かしらの目的があったのだと思います。もともとのきっかけは絵を描くのが楽しいからかもしれませんが、最終的には作者の目的を達成するための一つの手段として絵を描いたのでしょう。

 

作者には人々に伝えたい事があって、それを伝える媒体として絵があったのでしょう。その内容は作品や作者によって異なるでしょう。音楽だってそうです。作者にはそれを作る意図があって、受容者がそれを感じ取る、あるいは別の解釈をすることで面白さを感じ、作品の価値を感じるのです。

 

普段人間が人間同士でコミュニケーションをとる時、何かを伝える時、言葉を使います。しかし、言葉だけで説明するとなると、誤解を生んだり本当に伝えたいことが伝えられなかったりした経験は誰にでもあると思います。言葉は一次元の表現です。だからこそ情報が欠落しがちで、伝えたいことを100%相手に伝えるのが難しいのです。

 

そう考えると絵画というものは、二次元の表現だと言えます。言葉では上手く表現できないことを表現する、あるいは言葉による表現における情報の欠落を防ぐために、絵画を描くのではないでしょうか。ちなみに映画は二次元+時間軸なので三次元ですね。

 

 

今日の考察

「作者は絵画という二次元表現を用いて、ある伝えたい考えや事象を伝えている。

書物は一次元情報媒体。

絵画は二次元情報媒体。

映画は三次元情報媒体。」

 

 

この人の考え方も面白いです。

oookaworks.seesaa.net

はじめに

こんにちは、ガパオです。

最近、知的好奇心や探究心が有り余っているお陰で、考えることが趣味になりました。


日々を過ごしていると、深く考えずに通り過ぎてしまうことって沢山あると思います。


それを自分なりに考えて、時には人の力も借りて、考えたことを書いて行きます。


別に「人にこの考えを教えたい押し付けたい」「ブログで収入を得たい」とかそういう動機は全くなく、「ただただ自分の考えを発信した時にどうなるのか見てみたい」という思いで始めました。


もちろん、自分の考えが正しいとは思いませんので、これをきっかけに読む人と共に考えを高め合っていければ素敵だなと思います。